鍼灸治療:日本の正統医学としての変遷

鍼灸治療や漢方処方が日本に伝えられたのは今からおよそ千四百年前のことです。欽明天皇の時代に、中国は呉の国の智聡という人が鍼灸や薬草の書物などを携えて来朝したと記録にあります。そして、中国の新しい大陸の医学が朝鮮半島を経由して日本にもたらされて以降は、緘灸をはじめとする日本の医学はその時代の中心的な医学として発展していくことになったのです。

大宝元年(七〇一)文武天皇により奈良に都が制定され「大宝律令」が整備されました。その中の「医疾令」(ただし原本は現存せず、その内容は「犬宝律令」を改修した「養老律令」の注釈書とされる「令義解」および「令集解」から判明できます)には、当時の医療に従事する医師や針師などへの教育や任用の諸規定が詳しく記述されています。

それによると、奈良時代の医療制度は完全に国家の管理下におかれていたようです。現在の厚生労働省の官僚あるいは国立病院の医療従事者といったところでしょうか。そして、一部の優秀な針師は針博士として特別な待遇を受けていたのでした。

当時、日本の医学は中国医学がその原典であったために中国の医学書を学ぶ必要がありました。しかしながら、これを読みこなせる漢学の教養がある者は貴族か一部の僧侶に限られていたのです。しかも、僧侶が日常的に読誦する仏教の経典には実は多くの医術に関する記述がありました。このことから、僧侶の中には医師として(当時、僧医と呼ばれていました)活躍する者もあらわれるようになり、仏教精神にもとづく医療の救済事業もおこなわれ始めたのです。

中国では唐の都である長安が栄えていた頃、我が国での律宗の開祖とされる鑑真和上が幾多の海難での事故を乗り越えてようやく唐から来日を果たしたのは西暦七五三年のことでした。しかし、その旅の途中で鑑真は失明してしまったといいます。それから約五年後鑑真は奈良に唐招提寺を建立しました。

日本に帰化してからは、仏教のみならず僧医として医術に優れ、漢方薬の材料に関する学問である「本草学」にも大変に造詣が深かったといわれています。特に生薬の鑑別では第一人者としての評価を受けていたほどです。このように、古代医学の歴史上鑑真の残した大きな功績には計り知れないものがあったといえるでしょう。

さて、平安時代の中期、針博士であった丹波康頼は日本で最初の体系的な医学書とされる『医心方』全三〇巻を編纂し、西暦九八四年に朝廷に献上しました。その後医科の家系である丹波家の子孫は代々針博士として重用され、鎌倉時代には征夷大将軍となった源頼朝の乙姫の病気を治療するために丹波時長が京都から鎌倉へ赴いたとい記録も残されています。

日本の医学史上、視覚障害者で医療に尽力を注いだ人物では先述の鑑真和上があまりにも有名ですが、江戸時代中期頃に鍼灸の発展に多大な貢献をしたのは盲人で鍼師の杉山和一でした。
当時、五代将軍綱吉はしばしば持病の疝気(急性腹症)を病み、和一に鍼治療を命じたのです。この鍼治療が大変に功を奏して将軍の病は癒え、その報償として鍼術興隆のための鍼講習所が設置され和一はその任に当たりました。そして、盲人に与えられた最高位の検校(関東総録検校にまで出世しました)に任命され、鍼の講習所も江戸近郊四十五カ所に増設されました。また、和一は創意工夫に富み、現在も一般的におこなわれている杉山流「管鍼法」という治療法を考案した人物でもあります。

これ以降、全盲をはじめとする視覚障害者が社会的に自立するための職業としての鍼や按摩などの医術に対する世間の評価は次第に高まっていったといいます。それにより盲人が鍼や按摩を職業とすることも著しく増加し、明治時代初頭には東京での視覚障害者の八割以上が鍼按術に従事していたようです。

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